豆腐コラム

ブログ筆者「絹太郎」の自己紹介と豆腐メンタル遍歴

名前:絹太郎

年齢:おっちゃん

仕事:コメディカル(医療職)

趣味:ネット・酒・映画鑑賞・音楽鑑賞・ゲーム・釣り・写真・ソロキャンプ・車中泊

お疲れさまです。

豆腐メンタル+ADHD(多動性・衝動性優勢)+社会不安障害(対人恐怖)という、生き辛さの盛り合わせのような人生を歩んできた、生え抜きのベテラン豆腐メンタラー「絹太郎」と申します。

このブログの筆者であるボクがどんな人生を歩んできたのか?
豆腐メンタルとどうやって共存してきたのか?

興味のある方は読んでみてくだい。

「このおっちゃん、めっちゃ豆腐メンタルやん!なんか、ワイの生き辛さが小さく思えてきたわ(笑)」

と思えていただけたら幸いです。

>>ADHDについて詳しく知りたい方は【】をお読みください。

>>社会不安障害について詳しく知りたい方は【】をお読みください。

当事者であるボクの経験を通して分かりやすく解説しています。

【ベテラン豆腐メンタラー絹太郎のザックリとした略歴】

「幼少期」
・記憶に残っているのは「父親=こわい」「母親=しつけに厳しい」ということです。
・友達と遊ぶよりも一人遊びをしていたことの方が明らかに多かったです。

「小学生時代」
・授業中じっと座っているのが苦痛でたまりませんでした。
・担任の先生に理解してもらえないという思いが強かったです。

「中学生時代」
・いじめは受けませんでしたが「なんとなく浮いた存在」でした。

「高校生時代」

「大学生時代」

「フリーター時代」

「社会人時代」

「介護職+専門学校生時代」

「」

【ベテラン豆腐メンタラー絹太郎のめっちゃ詳しい略歴】

「幼少期」
小学校に上がる前の記憶として強く残っているのが、父親がこわかったコト、しつけに厳しい母親によくしかられていたコトです。

自営で工務店(大工)を経営していた父は本当にこわい人でした。

父親に怒られたときのボクは「蛇ににらまれたカエル」状態で、口答えなどとんでもないことでした。

母親はとにかくマジメでかたい人でした。
そんな母からはしかられた記憶ばかりで、ほめられた記憶は……ありません。

両親は愛情表現のとても不器用な人であったと思います。

父、母が語った自身の昔話には、ほめられた・楽しかったというような「両親に対する良い思いで」が出てきませんでした。
両親とも愛情豊かな幸せな家庭で育ってはいませんでした。

「小学校時代」
とにかく教室でジッと座っていることが苦痛の極みでした。
はやく授業が終わることを願い、黒板の上の時計ばかりを見ていました。

勉強は好き嫌いに大きな波がありました。
国語・図画工作(美術)などは大好きで休憩時間も勉強を続けるほど集中できましたが、算数は嫌いで鉛筆や爪をよくカジッていました(笑)

通信簿には「おしゃべり泥棒」(会話に割り込み自分のことばかりを話してしまう)とたびたび書かれていました
だからといって、授業中に積極的に発言するタイプではありませんでした。

一人遊びが好きでレゴブロックにめちゃくちゃハマってました。
あまりのハマり具合に親が心配し、一時期レゴブロックを取り上げられてしまったほどです。
図鑑(昆虫・歴史)を見るのが大好きでボロボロになるまで繰り返し見ていました。

小学生の頃、父親の指示で剣道を始めましたがイヤでイヤで仕方なく、稽古はよくサボりました。
稽古に行くフリをして近所の空き地にあった土管の中に隠れて時間をつぶしてました。

「中学時代」
中学生時代も変わらず授業というか、同じ場所に長時間拘束されることが苦痛でたまりませんでした。
授業以外のことを夢想したり、教科書や机への落書き、貧乏ゆすりをよくしていました。

中学時代も国語と美術が好きでした。
国語では「少年の主張」的な作文で候補に選ばれてしまい、子供心ながら「心にもないことを書いてしまったのに、選ばれちゃったらどうしよう……人前で作文なんて読みたくない……」と、家で一人悩んだ苦い思い出があります。

英語と数学が大の苦手で、授業中は「指されたらどうしよう……」といつもビクビクしていました。
しかし、なぜかよく指されてしまい冷や汗ダラダラな経験をたくさんしました。
先生に目をつけられたのは、授業に集中せずに時計ばかりを見ている+激しい貧乏ゆすりがあったからかもしれません。

卓球部に所属しましたがほぼ幽霊部員でした。
とにかくはやく家に帰って学校から解放されたい一心でした。
かといって、家が楽しくて仕方がないわけでもありません。
時間的・場所的な拘束、束縛がとにかくイヤだったのです。

この頃もやはり一人遊びが好きで、家でテレビを見たりゲームばかりをしていて母親によく怒られました。
勉強しなさいと怒られ自分の部屋で机に向ってはいましたが、机の上ではキン肉マン消しゴムで熱い死闘を繰り広げてばかりいました。
そのことがバレ、父親にキン肉マン消しゴムを捨てられてしまいました。
あまりにひどい仕打ちに夜布団の中で思い出しては泣いていました。

女の子と話すことができないという、いまでは考えられないシャイボーイでした
いまは男性と話すよりも女性と話す方が精神的に楽です。
決して女好きという訳ではありません(言い訳)。

「高校時代」
なにを間違ったか、ボクにはもっとも合わないラグビー部に入部してしまいました。
(「父親に認められたい」「こんな自分を変えたい!」という思いがあったのかもしれません……)

入部してスグにもの凄く後悔しました。
チームプレイが必要なスポーツ+過酷な練習+汗臭い部員同士が群れる……自分にはまったく合わない要素しかありません。

先輩の方々はみなさん良くしてくださったのですが……とにかく、ボクの魂がこの活動を拒絶したのです。

1年はなんとか続けましたが、2年で退部してしまいました。
まさに人生の黒歴史です。

なんと高校時代も女の子と話すことができませんでした。

ですが、ちょっとでも女子から話しかけられると「もしかして、ボクのことが好きなのかもしれない……」と瞬時にして思い込む、とんでもなくおめでたいというかアホな、身の程知らずのカン違い野郎でした。

なので恋愛をしたくてたまらないのに、女子とは無縁のとっても残念な高校生でした。
おそらく女性と手をつないだ経験は、小学生時代のフォークダンス以降ずっとなかったと思います。

高校3年生から学校をサボるようになりました。
電車に乗ってよく新宿に出かけ、うろついていました。

お金があるときは映画館で弁当を食べ、お金がないときは公園のベンチで弁当を食べ、一人で過ごすのが至福の時間でした。

新宿の紀伊国屋書店には数えきれないほど出かけ、何時間も満たされた時を過ごしました。

このころ文学に目覚め、太宰治・芥川龍之介・夏目漱石・カフカ・カミュ・ゲーテ・ドストエフスキーなどを乱読していました。

そして「人生とはなんぞや!人はなぜ生きるのか!?」と悩む自分に酔いしれる、ナルシストちゃん全開状態でした。

この頃のボクはとにかく痛い、「こいつ、あんまり関わらない方がエエな……」という感じの文学青年気取り野郎でした。

少ない友達が更に少なくなった時期でした。

また、尾崎豊に傾倒し「高校なんかやめてやる!」と一人息巻いていましたが、ボクができたことは卒業式に出ないというとてつもなくトホホな反抗でした。

反抗というか……なんとも愚かな独り相撲でしたね。

もともと対人緊張が高かったのですが、この頃から社会不安障害(対人恐怖症)が強くなってきたのだと思います。

「大学生時代」
一浪の末なんとか入学できたのは第四志望の大学でした。

ロシア文学科・ドイツ文学科・フランス文学科・国文学科と受験したのは全て文学部でした。

父親は「文学なんか学んでも何の役にも立たない!」と大反対でしたが、「文学部を受験できないなら大学に行かない!」とはじめて父親に反抗をした思い出があります。

父親はとても怖い人だったので、いま思うと「あの頃の俺、よく頑張った!」と言ってやりたいです。

父親に反抗してまで文学部に入学をしましたが、勝手に思い描いていた大学の講義とはほど遠く、もちろんサークル活動にもなじめず、一年生後半からバイト(倉庫内の荷物整理やコンビニの夜勤)に明け暮れるようになりました。

バイト先では変人「豆腐メンタラー」であるボクを受け入れてくれる人々に恵まれ、楽しい時間を過ごすことができました。

バイトで手にしたお金でしばらくはブラブラと遊びほうけていましたが、
「なんか今の自分……物たりねぇ……」
という壁にたびたびぶち当たるようになりました。

その想いをコンビニのバイト仲間でバンドマンであったK君に打ち明けると、
「絹太郎さんなにかやりたいことないんすか?」
と言われました。

そのやりたいことがないから困っているんですと言うと、
「なにか好きなことはないんすか?」
とふたたび質問されました。

「う~ん……好きなこと……しいて言うなら映画かな……」
と答えるとK君は

「映画が好きなら演劇とかいいんじゃないんすか?オレのダチ(友達)にも劇団に所属して演劇活動にハマってるやつがいるんすよ。そいつも映画めちゃくちゃ好きっすね。どうっすか?」
と言われました。

演劇……劇団員……う~ん……未知の世界……と敬遠しましたが、K君は当時のバイト求人雑誌の大手「フロムA」を雑誌コーナーから持ってきて、
「ここにバンド仲間や劇団員を募集してるコーナーがあるんすよ。自分もバンドメンバーここで募集したんすよ。応募して見学だけでもしてみたらいいんじゃないんすか?」
と言われました。

「なるほど……」ボクはそれからフロムAの巻末にある「仲間募集コーナー」(だったと思う)をチェックするようになりました。

すると一月後ぐらいに、自宅から3駅ほどの近場に稽古場(公民館)がある劇団が、団員を募集している記事が目に入りました。

K君に相談すると
「いいじゃないんすか。とりあえず行ってきてみてくださいよ。Break through(突き抜ける)すよ! 」
との言葉に押され、見学に行くことにしました。

その劇団は予想に反し女性が圧倒的多い(8割)環境でした。
正直うれしさもありましたが、
「女性とうまく話せないのに、こんな環境でやっていけるだろうか……」
との不安もありました。
「なんとかウソをついてお断りするべきか……」

しかし男手が少ないということでボクは大歓迎され、瞬時に退路は断たれてしまいました。

ですが人前に出て演技をするということにビビッてしまい、とりあえずは大道具枠で入団することにしました。

大学に行っていなかったので時間が大いにあったため、大道具つくりに没頭しました。

モノ作りは好きな方であったので、ボクは水を得た魚のように青春を謳歌しだしました。

この時ボクは「ようやく居場所を見つけた!」という思いに溢れていました。

そして劇団の活動に没頭する姿が認められ、
「絹太郎さん、ちょい役で舞台に立ってみない?」
と声をかけられました。

ボクは大道具で十分ですと断りましたが、役者が足りないからと押し切られ初舞台を踏むことに。

そしてその経験が……今までにない快感だったのです!

それからボクは演劇にハマりまくりました。

稽古には一日も休まずに通い、大道具作りにはバイトで稼いだ金のほとんどををつぎ込み、小劇場めぐりが趣味になりました。

今まで味わったことがない充実した時間、精神的に満たされた時間を過ごすことができたのです。

社会不安障害(対人恐怖症)があり、人と関わることでヘトヘトに疲れてしまっても、その辛さを上回る人から必要とされる「承認欲求」が満たされることの充実感を味わうことができたのです。

さらには、この女性の圧倒的に多い劇団に入団し、稽古や大道具作りを通して女性と強制的に話さなくてはならない環境になることで、女性に対する免疫がめちゃくちゃUPしたことも非常に貴重な経験でした。

対人恐怖症(特に視線恐怖)で人と関わることに大きな負担を感じはしても、女性とならばその緊張も若干軽減される基となったといえるでしょう。

ま、女性が好きという本能的な部分も大いにあるとは思いますが(汗)

大学生活のほとんどを演劇にささげたといっていいでしょう。

その結果、卒業に必要な単位が全く足りず大学中退……。

父親には激怒され、母親には泣かれ……人生ってうまくいかないもんですね。

「フリーター生活」
大学中退後のボクには、「こりゃ天中殺かよ……」というぐらいにイロイロありました。

就職などによる退団者が続出し劇団は解散。
ボクの青春が散ってしまったような非常にショックな出来事でした、

さらには酒とタバコが好きだった父親が末期ガンであることが判明。
40代と若かった父はガンの進行がはやく、あっという間に亡くなってしまいました。

そして、ボクは大学中退のフリーター……。

母親とはギスギスした関係がしばらく続きました。

この頃は社会不安障害が悪化し非常につらい時期でした。

しかし、劇団で知り合ったある女性がなぜかボクのことを献身的に支えてくれたのです。

そして恋愛関係に……。

実家でのパラサイト生活と彼女へのあまえ(依存)で、1年ほどコンビニ夜勤のフリーター生活を続けてしまいました。

その間、母親からこんな生活をいつまで続けるのかと幾度となくいわれ、就職することを強いられましたが、彼女からは一言も定職につくよう催促されることはありませんでした。

このアメとムチのバランスがボクにはよかったのかもしれません。

「彼女のためにも、父を亡くした母親のためにも、ボクが定職について安心させなくてはならない……」

と気持ちを奮い立たせることができたのです。

フリーター生活を送ったことがある方ならばわかると思うのですが、真綿で首を絞められるような心理的な葛藤・焦りみたいなものはあるけれども、社会人としての縛り・責任感がない冷えたぬるま湯のような生活は、いったんハマってしまうとなかなか抜け出せないのです。

なので豆腐メンタル保持者であるボクはおそらく彼女の存在がなかったならば、母親との関係を悪化させながらもフリーター生活をまだまだ続けていたと思います。

フリーターから正社員としての転職は、思いのほかあっさりと決めることができました。

その理由は、正社員として雇ってくれるならばどこでもいいと労働条件にこだわらなかったからです。

あの時のボクは、「とにかく正社員として働きたいと」という気持ちももちろんありました。

ですがとにかくこの状況をなんとかしたいという、逃避行動的な思いが心の中で暴れていたため、給料の額や福利厚生などについて細かくチェックして仕事探しにこだわる余裕などなかったのです。

ADHD(多動性・衝動性優勢)と診断された今になって思い返してみると、「じっくり落ち着いて考えるのが苦手・思い立ったらすぐに行動してしまう」という部分も、大きく影響していたように思います。

ハローワーク通で紹介された小さな設備会社に就職が決まり、さっそく働きだしましたが……ここからが大変でした。

「豆腐メンタルの正社員デビュー~豆腐メンタルの前に立ちはだかる壁」

初の正社員デビューとなった設備会社の待遇は、

給料は手取りで20万前後
ボーナスは年2回、基本給1.3~1.5ヵ月
年収にして350万円前後

勤務時間は8:30~18:00
残業は基本サービス残業(月に10時間前後)
勤務は月~金で土曜日は隔週で半日勤務
隔週で土曜と日曜祝日が休み

低賃金ではありましたが、ひどいブラックな労働環境ではありませんでした。

しかし、豆腐メンタル+ADHD+社会不安障害という生きづらさの幕の内弁当のようなボクには、この生活が苦痛でたまりませんでした。

そして正社員としての社会人生活がはじまってから、ボクの飲酒量は格段に増えました。

大学生のころおぼえたお酒でしたが、それまではカルピスソーダなどの甘いお酒しか飲めませんでした。

しかしこの頃からビールにはじまり焼酎・日本酒・ワイン・バーボン・テキーラ・ウォッカ(スピリタス)なんでも飲めるようになっていってしまったのです。

豆腐メンタル+ADHD+社会不安障害を抱えながら仕事をするため毎日へとへとで、アルコールの力を借りないと自分を保てないと思い込んでしまっていたのです。

心身とも疲れ果てて仕事から帰っても、神経が高ぶって眠れない。

酒を呑まないと肩こり・頭痛が酷く、アルコールの力なしでは眠ることができなかったのです。

最悪な状態の時は、夕食をたべながらまずビール500ml缶を2缶飲み、その後は自分の部屋でバーボンをラッパ飲みでビンの半分ほど飲み、さらに頭痛薬(バファリン)2錠をかみ砕いて飲み、意識がもうろうとなってようやく眠りにつくというような状態でした。

こんな状態ですから朝の目覚めは最悪で、目覚まし時計の音が地獄のサイレンのように聞こえました。

こんなメチャクチャな飲酒生活を2年ほど続けたのです。

(いまのボクは週末、土曜日だけしか飲みません。20代のこの頃のような飲み方をしていたらとても仕事にはなりませんし、身体をこわし入院確定でしょう)

心身ともボロボロな状態でいつも辞めることばかりを考えていました。

それなのに、豆腐メンタルなボクなぜ辞めなかったのか?

それは、彼女から「いまここから逃げ出したらあなた負け犬だよ」という言葉をいってもらえたからです。

いつもボクを優しく支えてくれた彼女がなぜそのような厳しい言葉をボクに言ったのか。

それは、ボクが毎週のデートの時に必ず居酒屋で飲んだくれては弱音・グチばかりをこぼしていたからです。

さらに彼女からは「どうしても辞めたかったら、辞めてもいいと思うよ。でもね、次にやりたい仕事をきちんと考えてからの方がいいと思う」というアドバイスをもらいました。

豆腐メンタルで逃げることばかりを考えて生きてきたボク。

いまでも豆腐メンタルではありますが、この時期にほんの少しだけ社会人豆腐メンタラーとして強くなれたのではないかと思っています。

(注)あやまってブラック企業に就職してしまった豆腐メンタルの方は、ボロボロになってまで働き続けるべきではありません。
決して「逃げるな!ムリをしても働け!」とうような、社畜精神を推奨しているわけではありません。

正社員として働き始め3年目を迎えたころ、ようやく社会人生活に慣れてきました。

毎晩の晩酌は続いていましたが飲酒量は減っていました。

そして、「ボクのやりたい仕事は何だろう……」と真剣に考え出しました(「オソすぎだろ!」という突込みがあるとは思いますが……)。

そんな時に友人から週末ボランティアの誘いを受けたのです。

ボランティア活動の内容は一月に1~2回、知的に障害がある方々が暮らすグループホームで、一緒に買い物に出かけたり食事を作ったりするというものでした。

豆腐メンタルで社会不安障害のあるボクですが、このボランティアでは強い緊張を感じることがなくイキイキと活動することができたのです。

このボランティアでの経験が、ボクの人生を大きく変えました。

「人様の生活のお手伝いができる仕事をしたい」という思いが芽生えたのです。

当時はネット環境が充実していなかったため仕事帰りに本屋に立ち寄り、ボクが働きたいと思う仕事に関する情報収集をおこないました。

その結果、「介護の仕事をしよう!」という決断にいたったのです。

彼女にそのことを話すと賛成をしてくれました。

母親は「あなたに介護の仕事がつとまるのかしら……」と否定気味でした。

ボクはついに息つぎが下手なクロールで泳ぐ人のように、溺れそうになりながらなんとか3年間勤めた設備会社を退職することを決断。

ヘルパー2級の講習に通い資格を取得。

人生初の高齢者介護施設、老人保健施設で介護職デビューをはたしました。

しかし、ご存知のように介護の仕事は決してアマくはありませんでした……。

「激務の毎日介護職=西へ東へ必死で猛ダッシュです!」

介護職の現実を知らずに、「ボクの天職かもしれない!」と意気揚々と働きめましたが……「疲れた~」が口癖になってしまうほどの忙しい毎日の業務。

幸い人間関係には恵まれていたため、対人緊張は少しは軽減することができました。

しかし、「夜勤」が大きな負担となってしまいました。

入所フロア(高齢者の方々が泊まって生活をされている場所)担当の介護職は基本シフト勤務です。

早番~日勤~遅番~夜勤という勤務パターンです。

なので、起きる時間・寝る時間が日によって変わることになります。

豆腐メンタルの人は眠りが浅い、寝つきが悪い、不眠傾向……というような、睡眠障害を抱えている人が多いでのです(ADHDも睡眠障害の確率が高い)。

ただでさえうまく眠れないのにシフト勤務によって生活パターンが大いに乱され、睡眠障害に拍車がかかり情緒不安定に……。

最悪なのは夜勤(17時~翌日9時)の時でした。

夜勤前、夕方になると漠然とした不安に襲われ、仕事に行くのがイヤでイヤでたまらなくなる。

夜勤中も深夜に相方が休憩に入り、一人での見回り中に強い不安が襲ってくる。

夜勤明けで疲労困憊なのに外は真昼間状態なので眠ることができない。

なので、昼間から酒を呑んで強制的に眠る……再び飲酒量が増えることに。

しかし酒を飲んで強制的に寝ても、身体は慢性的な疲れ・ダルさに支配されている……。

さらに困ったことに、多動性・衝動性優位のADHDであるボクは仕事が忙しいと「走り出したらとまらないぜ‼」的な心身状態にスグになってしまい、常にトップギア状態、突っ走っている状態、衝動性に突き動かされている状態で働くことになってしまうのです。

これって……めちゃくちゃ疲れます‼

同僚の介護スタッフからは「絹太郎さんはよく働くね」と言ってもらえましたが……違うんです!

もっと落ち着いて働きたいのに、走り出すと全力疾走してしまうのです!

心の中では「誰か止めてくれぇ~~~~っ‼」と叫んでいたのです!

しかし、上司(フロアの介護主任)や同僚介護職に恵まれたこともアリ、心身ともに「もう限界かもしれない……」と思いながらも、なかなか退職届を書くまでは踏み切ることができませんでした。

ですが、強制的な退職決断の転機は突然訪れたのです。

介護主任のIさん(40代・男性)が退職することとなったのです。

豆腐メンタル+ADHD+社会不安障害をコラボさせている変わり者であるボクを大きな心で受け入れてくださり、職員が働きやすい職場環境を整えることに尽力してくださったIさん。

毎日忙殺される職場で心身ともに限界を感じていたため、Iさんがいない職場で働き続けることは考えられませんでした。

Iさんが職場を去った約3ヶ月後、ボクも退職を決断しました。

退職後の生活はこれまた豆腐メンタル全開のヒドイありさまでした。

・転職先をまったく決めていなかったため無職に。

・「(ボクが)一人になりたいから」と全力で支えてくれた彼女と別れることに。

・実家ぐらいのパラサイトシングルをいいことにひきこもり生活に。

そして母親と顔を合わさないようにするために、昼夜逆転生活に突入。

こんなすさんだ生活を1年ほど続けることになってしまったのです。

しかし、悪いことばかりではありませんでした。

豆腐メンタル+ADHD+社会不安障害というのまるで生き辛さのジェットストリーム・アタックのような攻撃を受け、介護職として忙殺される毎日を3年間送り、心身ともに疲れ果ててしまっていたボクの休養期間ともなったからです。

「先が見えない……ボクはこの先どうなってしまうんだろう……」

という不安を抱えながらも、「そろそろ働きたい」という気持ちがようやく芽生えはじめてもいたのです。

【介護職の師匠、救いの神Iさん再び】

ハローワーク通いをはじめようとしていたある日の事。

Iさんから携帯にメールが届きました。

メールの内容は新しい職場での近況報告と、ボクの近況をうかがうものでした。

返信メールにはボク自身も退職し無職になってしまったこと。

現在は無職生活から脱却するために、ハロワ通いをはじめようと思っていることを書きました。

すると「もしよろしければ、絹太郎さんも一緒に働きませんか?」という、思いもよらない返信メールを頂きました。

正直、少し迷いました。

就職先として介護職を考えていなかったわけではありません。

ですが、夜勤はもうしたくないという思いが強かったからです。

なので返信メールでは、介護職として働きたいという考えはあるけれども、できれば夜勤はしたくないことを伝えました。

「こんなわがままな考え、受け入れられないよな……」

と思っていたのですが、Iさんからの返信メールには、
「実は私が主任を務めるデイケアで介護職員を募集してるのです。私としては絹太郎さんをオススメしたいと考えているのですがいかがですか?」
ということが書かれていました。

デイケアとはお家から送迎車で通所される高齢者の方々が利用する、「泊り無し」の通所型介護施設のことです。

「そうか!その方法があったか!」とボクは喜んでIさんの提案に「ぜひよろしくお願いします!」と飛びつきました。

Iさんからの返信メールには、
「ただ一つだけ、確認しておきたいことがあります。デイケアは夜勤がないため夜勤手当がつきません。その分給料が安くなってしまいます。それでも大丈夫ですか?」
と書かれていました。

当時のボクには迷いはありませんでした。

人間性が優れているだけではなく、介護職としての知識と技術、情熱もあわせもったIさんのもとで安心して働くことができる。

しかも夜勤なしで!

まさに「渡りに船」という状態でした。

実家から自転車で15分ほどの距離にある老健併設のデイケアに面接に向かいました。

無事に採用され、約1年ぶりに介護職として働くことが決まりました。

【デイケアの介護職員として働きながら考えた将来への不安】

デイケアでの仕事は、入所フロアの介護職とはまた違う大変さがありました。

ですが、豆腐メンタル+ADHD+社会不安障害という生き辛さのハット・トリック状態のボクにとって夜勤がなく、生活のリズムが乱れないデイケアでの介護職としての仕事は非常にありがたかったのです。

介護職は給料が安いです。
仕事は毎日もれなく忙しいです。
社会的な評価は低いです。

でも、うまく生きることができない、特別な才能や資格を持っていないボクが社会人として、正社員として働くことができる貴重な職場なのです。

そういう思いで自身を納得させながら、デイケア主任Iさんの指導のもと安定して働きました。

当時のボクは30代でしたが、このまま定年までここで働き続けるのだなと漠然と考えていました。

しかし、また人生の大きな波がおとずれることとなったのです。

豆腐メンタルのボクは生活環境が変化することはすごく苦手だというのに……。

デイケアで働きだして1年ほどたち、仕事にも慣れて生活が安定しだしたころ。

ボクは新しい「恋」をしてしまいました。

前の彼女と別れる時に、5~6年は一人でいたいと考えていたのに……。

しかし、この恋には大きな問題がありました。

好きになってしまった女性は、前の職場の同僚介護職員で「既婚者」だったのです。

当時から仲は良かったのですが、人妻であったため恋愛対象とは考えていませんでした。

時々メールはしていたのですが、仕事の連絡やグチなどたわいもない事でした。

しかし、退職後から次第にメールの頻度が増え、内容も悩み相談など深いものになっていきました。

そして、ボクがデイケアに就職して間もなく、彼女(Mさん)の方から「就職祝いに飲みに行きませんか?」という誘いを受けたのです。

正直「えっ……?」という意外な思いがありました。

ですが、ま、既婚者だし友達として会えばいいだろうというような軽い気持ちで飲みに行きました。

しかし、その飲み会が思いのほかにボクの心に突き刺さってしまったのです!

居酒屋に現れたMさんは、職場では見たことがないシックな装いで明らかにおしゃれをしてきました。

ボクは着古したネルシャツにGパン姿だというのに。

職場では旦那さんや子育てのグチなどの表面的な話しかしませんでした。

しかし、この時からMさんは家庭のことは一切話さなくなりました。

好きな映画や音楽のこと、将来の夢として考えているイラストレーターとしての活躍などを、瞳をキラキラとさせながら話したのです。

性格は複雑だけれども、女性に対して単純なボクは「素敵な女性だなぁ~」と勝手に恋に落ちてしまったのです。

この後、ボクたちは毎月1回食事や飲みに行くようになりました。

いま思えば、Mさんにとっては恋愛対象ではないけれども、話しやすい男友達の一人でしかなかったのだと思います。

しかしボクはドンドンとMさんの魅力に惹かれて行ってしまいました。

恋は障害が高ければ高いほど燃え上がるといいます。
当時のボクはまさにそのような心理状態でした。

間抜けなピエロの一人相撲だというのに……。

その結果、Mさんはボクの「恋してる」オーラ全開バリバリの勢いに引きはじめました。

メールの返信が遅くなり、飲みや食事の誘いも断られ……。

仕事中もMさんのことを考えてしまいため息ばかりをつき、ミスを連発してしまうような状態が2~3週間続きました。

そんなボクを見るにみかねたIさんが、「絹太郎さん、ナニか心配事でもあるの?」と声をかけてくださいました。

仕事終わりにファミレスで食事をしながら、Iさんにすべてを話しました。

すると、
「人の奥さんを奪って絶対に幸せにする覚悟がないならば、その恋はやめたほうがいい」
というアドバイスをもらいました。

「覚悟」……確かにない。

ボクは恋に苦しんでいるふりをしていながら、自分自身のことしか考えていなかったのです。

Mさんへの思いを断ち切ることにしましたが、豆腐メンタルのボクはきっぱりと気持ちを切り替えることができません。

忘れようと思っても、だらだらだらだらと想いを引きずってしまうのです。

恋する人に避けられる苦しさ、覚悟がない自身への情けなさ、かなわない恋だからこそ燃え上がってしまう想い……。

いやぁ~あの時は本当に苦しかったですね。

ただ、あの苦しさがボクを前進させるために背中を強く押してくれたことも事実です。

「いままでの人生で、ボクは逃げてばかりだった。30歳を過ぎてしまってもう手遅れかもしれないけれど、自分に自信が持てるような努力をしてみよう」

そう思い3~4ヶ月間悩んだ末にたどり着いた答えは、「学費400万円を払って、4年間働きながら夜学に通い、医療系の資格を取得する」というものでした。

介護職から医療職へのステップアップを果たす。

そう覚悟を決めたのです。

それは自分自身を信じれるようになりたいという大義名分(キレイごと)と共に、高いハードルを越えることを自身に課すことで失恋の苦しさから逃れたい、医療職になってMさんを見返したいという、演歌の名曲「天城越え」のようなドロドロとした情念が根底にあったことも確かです。

しかしこのことを実際に行動に移すには大きな問題がありました。

学費400万円です。

豆腐メンタルゆえに転職を重ねただけではなく無職期間+衝動買い傾向があり、介護職で低所得のボクには400万円もの貯金があるはずがありません。

かといって、30歳を過ぎたおっさんが母親に学費をお願いするわけにもいきません。

どうしよう……悩んだ結果たどり着いた答えが、「奨学金」という名の借金をすることでした。

通学しやすい学校を見つけ、入学願書を取り寄せ、働きながら必死に受験勉強をしました。

奨学金の審査も無事に通り(借金400万円確定)、30代にして再び学校生活を送ることになりました。

専門学校に合格したことをIさんに報告し今後について相談をすると、働きながら通学させてもらえるか事務長に相談してみるといいというアドバイスを頂きました。

事務長は仕事、とくに金銭面には厳しいということで有名でした。

しかしここで逃避行動をしているヒマはありません。

業務終了後に事務長室に訪れると「合格したのか?」と一言。

「え?あ、はぁ……合格しました」ボクは不意を突かれ頭の中は混乱状態に。

事務長:「Iから話をきいてた。絹太郎が受験勉強をしてること」

絹太郎:「あ、そうなんですか!」

事務長:「実はうちの息子もな、去年から君と同じ資格を取るために学校に通ってるんだ」

絹太郎:「そうなんですか!」

事務長:「で、どうしたいんだ?」

思いもよらぬ展開で動揺しつつ、心の中でIさんに深々と頭を下げました。

事務長にはこのままデイケアで働きながら通学させて頂きたいといいう希望を伝えました。

事務長:「それで、授業には間に合うのか?」

絹太郎:「早番でしたら大丈夫なんですが……」

勤めていたデイケアには、8:00~16:00の早番と9:00~17:00の日勤の2つのシフトがあったのです。

事務長:「早番勤務を続けられるならば、このまま正社員でいいぞ」

絹太郎:「え!?本当ですか!ありがとうございます」

パート勤務になることを覚悟していたので、思いもよらぬありがたい展開に思わず事務長に握手をしてしまいました。

ボクは「おかげさまで」という言葉が大嫌いでした。

日本人が口ぐせのように「おかげさまで~」という言葉を使うことが、ウソ臭くてイヤだったのです。

しかしこの時のボクは皆様の「おかげさまで」生かされているのだということを、心から実感することができました。

なにごとも中途半端で、大学も中退してしまっているボクは今回こそは絶対に卒業する、成し遂げることを心に誓いました……。

夜間のクラスは比較的年齢層が高かったのですが、当時30代後半であったボクはその中でも年上の方でした。

ですが、誰よりも勉強をして絶対に資格を取得するという、ムダに熱い思いだけはありました。

そしてこの猪突猛進の思いは……4年間もの長い間持続させることはできなかったのです。

手を抜いたり怠けた訳ではありません。

頑張りすぎてしまい、心のエネルギーがエンプティー(空っぽ)、枯渇してしまったのです。

しかも、一番大事な4年生の最後の臨床実習の時にです!

その結果、実習は不合格となり留年決定……。

今思い返してみると、豆腐メンタル+ADHD+社会不安障害という生き辛さのラーメン次郎のマシマシラーメンのような状態で、昼間働きながら夜間学校に通うという生活を送ってよく頑張ったと思います。

しかし、人間は頑張ればいいというものではないんですよね。

頑張るという言葉が大嫌いなくせに、一生懸命に頑張っちゃって心がオーバーヒート状態という……なんともまぁ、ボクらしい展開になってしまったわけです。

当たり前のことですが、留年するということは仲の良かったクラスメイトと別れ、1年下だったクラスに入ってもう一年勉強をするということです。

プラドが高く、人に慣れるのに時間がかかる豆腐メンタルのボクには非常に大きなメンタル・アタックでした。

さらに困ったことに、奨学金は4年分しか支給されないため、5年目の学費を自力でなんとかしなくてはならない事態に……。

臨床実習以外の科目は全て履修していたため学費は減額されましたが、それでも50万円以上の学費が必要でした。

「いよいよ消費者金融に頼るしかないのか……」そう煮詰まっていると、母親から「5年目の学費どうするの?」と声をかけられました。

そして「困っているなら、お母さんが貸してあげる」といってもらえたのです。

30過ぎのおっさんが学費を親に借りるという、しかも留年してというなんとも情けない展開でしたが、ボクにはそこにすがるコトしかできませんでした。

5年間かけて専門学校を卒業し、なんとか医療職になることができました。

その後の人生は比較的安定して過ごすことができたのでした……ということにはなりませんでした!

なんてったって、豆腐メンタル+ADHD+社会不安障害というレッドロックのローストビーフ丼大盛のような生き辛さを抱えているボクです。

ここからさらに、アマゾン川の濁流の中で溺れてしまいそうになるのでした(こんにゃくメンタルの人には流れるプールであったのかもしれませんが……)。

就職先は大きな病院でした。

学校や実習先で学んだ仕事の仕方と、実際の現場で給料をもらうための仕事の仕方とには、当然のことながら大きな違いがありました。

思い込みが激しく考えに柔軟性のないボクは、まずここでつまづくのでした。

「学んできてこととは違う……」と。

豆腐メンタラーは人や環境に慣れるのに時間がかかってしまいます。

しかし、そんな豆腐メンタルの心理状態などはお構いなしに、こなさなくてはならない仕事はドンドン流れてきます。

冷や汗ダラダラの過緊張、テンパった状態であたふたと仕事をするためすぐに疲れてしまいミスを連発。

「あのおっさん新人はつかえない」
「資格を持っていても意味がないだろ」
と陰口を言われる。

同じコメディカルからだけではなく、現場では大きな力を持つ看護師さんたちからの風当たりも強くなる……。

専門学校時代には減っていた飲酒量が再び増加。

休日は酒浸りで過ごすため眠っても疲れが取れなく、月曜日から疲れた状態で仕事をすることに。

飲酒量の増加とストレスから胃腸をこわし、食欲低下+常時下痢状態に。

「あのおっさん、めっちゃ暗いよな。やる気あるのか?」
「あの人、トイレばっかりいってるよね」

追い陰口。

心身ともに疲れ果ててしまい、退職寸前まで追い込まれました。

しかし、ボクは辞めませんでした。

400万円の借金を背負っているため安易に無職になるわけにはいかないのです。

悩みに悩んだ末、いままで目を背けてきたこと「生き辛さの原因」と向き合うことを決断しました。

その向き合う方法とは、メンタルクリニックの受診です。

文学青年の悪影響からか、単なるボク自身の思い込みからか、「精神科」(メンタルクリニック)を受診することはとても大きな心理的なハードルでした。

「ボクはどこもオカシクないんだ……」

しかし、そん考えは本当にムダムダムダムダ(フォルティシモ)でした。

メンタルクリニックを受診することで生きることが楽になった今思うことは、
「もっとはやくに受診すべきだった‼」
ということです。

これは本当に声を大にして叫びたい!
言いたいのではありません。
叫びたいのです‼

豆腐メンタルで生き辛さに悩んでいるあなた!

一日でもはやく、メンタルクリニックを受診してください!

カウンセリングを受け、あなたの心に積もり積もった悩みを洗い出してあげてください!

風邪をひいたら病院を受診しますよね?

ケガをしたら病院を受診しますよね?

心がツラくなった時も病院を受診してください。

メンタルクリニック(精神科)を受診することは決して特別なコトではないんです。

風邪をコジらせてしまうと長引くように、心の病もコジらせてしまうと長引いてしまいます。

ボクが自身が受診してよったと思うことの一つに「このツラさを理解してくれる人がいる」ということです。

先生に言われたコトで強く心の中に残っているのが、
「いままでギリギリで生きてきたんだね」
という言葉です。

この言葉をきいたとき、先生の前で泣いてしまいました。

まさかアラフォーのおっちゃんが人前で泣くとは思いませんでした。

それぐらいにこの言葉がボクの魂に響いたのです。

豆腐メンタルではないこんにゃくメンタルの人にとっては当たり前のことかもしれませんが、生粋の豆腐メンタラー+ADHD+社会不安障害というメガ牛丼のような生き辛さを抱えてきたボクには、本当にギリギリの人生であったのです。

現在のボクは4年間勤めた病院を退職し、こじんまりとしたクリニックでコメディカルとして働いています。

転職した理由は、

① 大病院での仕事は自分には向かないということが心底理解できた。
② お腹いっぱいの人間関係に疲れてしまった。
③ 規模の小さなところで業務に追い立てられずに仕事がしたい。

この3つが大部分を占めます。

なので、「新たな環境でさらにステップアップをしたい」「給料の額をUPさせたい」というような、一般的な理由は含まれていません。

でも、それでいいと思うのです。

職場で働いている時間が一日の多くを占めます。

その時間を「いかに自分の生き方に合った職場で過ごすか」ということは、豆腐メンタルの人にはとくに大きな課題となります。

一度きりの人生、つらく苦しいことばかりを耐え忍ぶことに多くの時間を割くなんて、絶対にナンセンスです。

「楽」(らく)をして生きるべきなのです。

楽という言葉に日本人は否定的なイメージを持ちがです。

ですが、楽という言葉を調べてみると、

① 心に苦痛がなく、快く安らかなコト。
② 生計が豊かなコト。
③ たやすいコト、簡単なコト。

という意味だと分かります。

一度きりの人生、つらい思いばかりをしていきたいですか?

そんなコトありませんよね。

できる限り「心に苦痛がなく、快く安らか」で「生計が豊か」に生きたいですよね。

生計豊かに生きることは難しくても、できる限り心に苦痛がないように生きることは、あなた自身の生き方、仕事の選び方で獲得することは可能なのです。

豆腐メンタルをかかえ苦しく、つらいことばかりの人生を生きてしまっているあなた。

一人で悩んでいては目の前にある答えすらも、見つけることができません。

なんでも話せる親兄弟・友達がいなくても大丈夫です。

メンタルクリニックを受診してください。

プロのドクター、カウンセラーがあなたの心を軽くするサポートをしてくれます。

あなたの生きつらさの「原因」「原点」がきっと見つかるはずです。

なにもわからずに暗闇の中で一人、もがき苦しむのはもうやめましょう。

「でも、メンタルクリニックを受診するのってハードルが高い……」

生活に変化をもたらすことが苦手、苦痛を感じてしまう豆腐メンタルのあなたはそう思いますよね。

そんなあなたのために、この「暁!豆腐メンタル塾」は存在します。

豆腐メンタル当事者であるボクの実体験を通して、「豆腐メンタルをこじらせない」よう考え方をほんの少しだけ変えてみるチャンスを提供させていただこことが、この塾の役割だと思っているからです。

克服する必要はありません。

あなたオリジナルの、豆腐メンタルと上手に付き合う方法を見つけ出すことができればいいのです。

豆腐メンタルを克服すること、こんにゃくメンタルになることは簡単なコトではありません。

多大な時間と努力とが必要となるでしょう。

その過程で「やっぱりムリだ……」と挫折してしまい、失敗体験を重ねてしまいさらに自信喪失してしまうなんてバカバカしいですよ。

もっと肩の力を抜いて、チョットだけ人生の見方、生き方を変えてみませんか?

一歩を踏み出すことで、暗黒だったあなたの心に日がさす時が来ますから。

豆腐メンタル+ADHD+社会不安障害という生きづらさのトリプル・チーズバーガーのようなボクでさえ、安定して穏やかな社会人生活を送ることができているのですから。

メンタルクリニックを受診したことにただ一つ、悔いがあります。

それは「もっとはやく受診すべきだった!」といことです。

ボク、絹太郎がはじめてメンタルクリニックを受診したのは40歳を過ぎてからでした。

残念ながら現在「独身」です。

もっとはやく受診していれば、もうすこし違った人生を歩めて入れたかもしれません……。

「たられば」の話をしても意味がないのでここまでにしますが、この記事をここまで読んでくださったあなたはきっと豆腐メンタルを抱えて生きることに、いっぱいいっぱいなことでしょう。

でしたら、なるべく早く一歩を踏み出してください。

その一歩で、あなたの心の負担をだいぶ軽くすることができるのですから。

豆腐メンタルをこんにゃくメンタルに変化させることは無理ではないと思いますが、簡単なコトではないことは確かです。

ボクを含めて多くの人が一生豆腐メンタルと付き合っていくことでしょう。

ですが、自身の豆腐メンタルの原因・原点・タイプをよく理解することにより、生きつらさを2~3割、上手くいけば4~5割は軽くすることができます。

ボク自身は生きづらさを5割ほど減らすことができ、今までにない平穏な生活を手に入れることができています。

それは自身の生きづらさの原因(豆腐メンタル+ADHD+社会不安障害)を知ることにより、考え方・感じ方をかえるよう努力し、生活環境を変えてきたからです。

豆腐メンタルだから……とあきらめてしまう前に、あなた自身でもある豆腐メンタルと「上手に付き合う方法」を考えてみませんか?

そのきっかけになればと、暁!豆腐メンタル塾をはじめました。

あなたの人生の「暁」(あかつき=夜明け)のきっかけになることができれば幸いです。